創業まもない頃、旅姿の一人の男が柏屋を訪ねてきた。旅人は上州(今の群馬県)のお菓子屋で、ある日、富山の薬売りが来て饅頭を食べたところ、郡山の薄皮饅頭とは比べ物にならない・・・と言われたとか。そこで、薄皮饅頭の作り方を丁寧に教えて差し上げたが、1年ほどしてまたやって来た。
「まだ、うまくできません。」
「上州の。お前さんは餡を何で包むんですか?」
「教えの通り、あのようにして作った皮で包んでいるのですが・・・」
「ああ、それだからおいしい饅頭ができないんだ。まごころで包まないとお客様に喜んでいただけない」。
上州のお菓子屋は、この一言に大変感動し、何度もうなづきながら帰って行った。
家柄とか身分とかが幅をきかせていた明治の頃。ある大地主が二代目当主を呼んで法事の引き菓子を作るよう言った。条件は、東京のあるお菓子屋と同じ饅頭を作ること。それに対し二代目は、
「薄皮饅頭ならお引き受けしますが、そのお菓子屋のマネはできません」
と、きっぱり断った。作れ、いや作らない・・・の問答の末、大地主はかぶとを脱ぎ、薄皮饅頭を大量注文した。当時とすれば村八分(むらはちぶ)覚悟のこと。お菓子屋としての誇りと薄皮饅頭への愛情が、大地主をうなづかせたのだった。
戦後、日本が復興をはじめた頃の話。まわりのお菓子屋が、手に入る原料や人口甘味料でお菓子作りを再開する中、柏屋は歯をくいしばり、3年もの間お菓子作りを再開しなかった。これは、「のれんに恥じるような薄皮饅頭なら作らないほうがまし」との信念からであった。三代目の妻・香は、
「今はおなかではなく、心をいっぱいにしようね・・・」
とわが子たちに言って聞かせ、良い材料が手に入るまでじっと耐え忍んだ。
ひとりで薄皮饅頭を作ってくれる機械。四代目にとっては20年来の夢であった。やがて幾多の困難を乗り越え、世界初の自動包あん機の1号機が完成した。しかし、3代目からの許可は下りなかった。
「まだ手作りのよりうまい薄皮ができない。これではお客様に申し訳ない・・・」
薄皮饅頭づくりの目的はひとつ。まごころを包んで、ひとりでも多くのお客様に楽しんでいただくこと。機械といえど、そこには常に職人の優れた技術と感性との調和がなければならない。その後、試作をくり返すこと数十回。ついに3代目からの許可が下りた。4代目は、自動包あん機の開発をはじめ、朝茶会の開催や大萬寿の企画、薄皮手づくり体験の実施など、まさに薄皮一筋に歩んだ。自らを「饅頭で一生を棒に振る男」と呼んで笑う。
柏屋にしかできない喜び提案でお客様に楽しんでいただきたいと願う5代目は、創業150周年式典の席上である宣言を行った。
「これまでも〜嘉永5年の創業以来、21世紀の今日まで生かされてきた柏屋。先輩たちが種をまいて大切に育ててくれた花が、今、きれいに咲いています。信用という柏屋の大地にしっかり根を下ろし、天に向かって堂々と咲いています。この花の美しさをお客様に提供できるすばらしさ。先輩たちに感謝いたします。」





